え? 清水さんだけじゃなく、伊藤さんまでここに帰ってくるって、一体どうなっているの?!
意味がわからず、助け舟を求めて翔太のほうに視線を飛ばしたさやかだったが、その後ろからさらに、隣の部署の人間が帰ってくるのが目に入ってくると、まるでさやかを隠すかのように、夕花が慌てて前に出た。
「とりあえず、詳しい話は、中に入ってからにしよっか。着替えて、桜井の部屋集合でいいかな? さやかちゃんは、私と一緒に行動してたほうが怪しまれないから、とりあえずうちに」
そう言って夕花は、さやかの腕を取るとマンションの中に誘導する。
そして、エレベーターに乗り、夕花が9階のボタンを押すのを見て、さやかは口を開いた。
「あ、あの……。私、まだよくわかってないんですけど、みなさん、こちらに一緒に住んでらっしゃるんですか?」
「うん、そう。ごめんね。本来は桜井のアホがちゃんと説明しておくべきところ」
「いえ……」
「ここの5階から10階まで、うちの会社で借り切っててね。希望者は、格安で入れるの。で、たまたま伊藤も私も桜井もここに入ってて、伊藤はもともと桜井の指導役だったでしょ? その関係で、今回の異動になる前から、今日みたいに、ちょこちょこ三人で家飲みしてたのよね。だから、伊藤と入れ替えで私が桜井の指導役に決まった時は、三人で大笑いしたっけ」
夕花は、そこまで一息で言うと、さやかのほうを見て申し訳なさそうに微笑んだ。
「本当にごめんね、変な誤解あたえちゃって。桜井、さやかちゃんと付き合ってること、ひと言も口にしなかったから」
「あ、いえ。事情はわかったんで、大丈夫です」
これですべてにおいて、納得がいった。
夕花と翔太が最初から仲が良かったのは、伊藤を通じて、プライベートでもちょこちょこ顔を合わせていたから。
翔太がさやかを家に招待してくれなかったのは、同じマンションに会社の人間が多数住んでいるため、付き合いがバレてしまうのではないかと不安に思ったから。
翔太のほうの事情はよくわかった。
でも……。
さやかがそこまで思った時、エレベーターのドアが開いた。
降りた9階のフロアは、絨毯の廊下の両側に、赤紫色のドアが理路整然と並んでおり、まるでホテルを彷彿させる。
あから様に目を見張ったさやかに向かって、「会社が大分補助してくれてるから。自分の稼ぎだけだったら、こんなとこ住めないよ」と夕花が笑った。
通された夕花の部屋は、正直雑多な印象を否めなかった。
部屋の隅には、雑誌や新聞が山積みになっており、中身が見えるほど大きく口を開いたカバンが、二、三個クローゼットの前に転がっている。
棚の上には、蓋をあけっぱなしの化粧品が散在しているし、カーペットには、漆黒の長い髪の毛が落ちているのが、ぱらぱら目に入ってきた。
どこにどう座ったらいいのかわからず立ち尽くしていると、蓋をあけっぱなしの化粧水の隣に飾られた1枚の写真に目がとまり、さやかは思わず手に取った。
「あ、あの、清水さん。この写真……?」
「え?」
ちょうどズボンを脱ぎかけていた夕花が、中腰のまま振り返る。
「ああ、それ。私、元々事務職だったのよ」
「は? 事務職?」
初めて聞く夕花の過去に、さやかは素っ頓狂な声を上げると同時に、サンライズ証券本社勤務の事務職の女性が着ている制服と同じ制服を着て、写真の中でニッコリ微笑む夕花を見つめる。
「事務職って、だって清水さん、今営業で、男性にも負けない成績上げてて……」
「そう。今はこうして、営業してるけど、もともとは事務職だったの。でもね、ほら、見ての通り、こんな男っぽい性格でしょ?」
そう言って夕花は、散らかった部屋をぐるりと見渡す。
思わずうなずいてしまったさやかを笑いながら、夕花は言葉を続ける。
「誰かの裏方を支えるというよりは、自分が支えて欲しかったのよね。だから、総合職への転換試験受けて、今に至ってるってわけ」
「……」
「私が転換試験受けたのが、三年目に上がる前だったから、ちょうどさやかちゃんくらいの時ね。さやかちゃんも、何か事情があって派遣をしているんだろうけれど、ちゃんと自分の適性を見極めて、仕事って決めないとダメよ。私の場合、同じ事務でも、もうちょっと外向きの仕事だったら、転換試験受けてなかったかも知れないんだよね」
「外向きの事務……ですか……?」
「そう。あれ? 知らない? 事務職と言っても二通りあるの」
さやかはきょとんとした顔で、首をかしげる。
「そっか。えっとね、ひとつは、お客さんからの電話応対とか、人とものすごく関わりあう事務職。もうひとつは、本当に、ひたすらデータ入力とか、ひとりで完結できる仕事がメインの事務職。事務職ほど指す範囲が幅広い仕事はないから、ちゃんとその辺を確認してから応募しないと失敗するよね」
そんなこと、何も考えていなかった。
営業以外であれば、何でもいい。
そう思って、職種の「一般事務」という言葉だけで判断していたけれど、それじゃ、マッチングするはずがない。
自分は、何がしたいのか、何に向いているのか。
だったら、どんな会社のどんな職種を受けるべきなのか。
ちゃんと真面目に自分と向き合ったことがあっただろうか?
そう一瞬考え込んださやかは、着替え終わった夕花の声に、現実に引き戻された。
「さやかちゃん、服、どうする? 何か私の服、貸してあげようか?」
「い、いえ。大丈夫です」
「そう? じゃあ、そろそろ桜井の部屋、行こうか」
結局その日の晩は、翔太と夕花が買ってきた缶ビールを、夕花と、伊藤と、翔太とさやかの4人で翔太の部屋で飲み、さやかは抜け出すタイミングをつかめぬまま、いつの間にか、4人ともそのままコタツで眠っていた。
背中に痛みを覚え、目を覚ますと、時刻は四時半。
外はまだ暗いが、そろそろ始発電車が出るころだろう。
電気もつけずに、そっと起き上がったさやかの背中に、優しい声が降ってきた。
「どうした? 眠れない?」
振り向くと、翔太も上半身を起こしていた。
「ううん、そろそろ帰らなきゃ。それと……」
話があるの、と続けようとしたさやかに、「そっか。じゃあ、駅まで送るよ」と翔太は優しく微笑んだ。
二人で出た早朝の住宅街は、空気がひんやりとしていた。
「寒いね」
そう言って、翔太が、さやかの肩を自分のほうに寄せようとしたが、さやかは、優しくその手を振り払った。
「さやか? あの、ごめん。もっとちゃんと話せばよかったよね。さやかの気持ち、俺、全然考えてなかった」
さやかは翔太を見ずに、ゆっくりと首を振る。
「ううん。もう、そのことは、いい。翔太が私のこと嫌いになったわけじゃないってことがわかったから、それは、もう、いい」
「じゃあ、何で?」
翔太は、差し伸べることを拒否された手を、黙って見つめる。
「翔太の気持ちが変わったわけじゃないのは、すごくうれしかった。でも、こっからは、私の問題」
「さやかの、問題……?」
「そう。たった四ヶ月だったけど、最初は、すっごく楽しかった。朝メールもらったり、会社でメールのやりとりしたり」
「うん」
「特に私、大人になって初めてちゃんと付き合ったのが翔太だったから、恋愛することに一生懸命になりすぎちゃって、いつもいつも翔太のことばっかり、考えてた。でも、冷静になって考えてみると、それじゃ、ダメなんだよ」
「ダメ?」
「そう。今回の恋愛を通して、私、今まで知らなかった、自分の中の二つの性格を知ったのね」
「二つの性格」
「そう。一つは、意外に自分は嫉妬深かったんだ、ということ。そして二つ目は……好きな人ができると、我を忘れて、夢中になっちゃうということ」
「女の子って、たいたいそんなもんじゃないの?」
「他の人のことはよくわからないし、それを幸せに思う人は、それでいいと思う。人にはそれぞれの価値観があるから。でもね」
「うん」
「私は、もっと、仕事を通して、自分を成長させてあげたいと思ったの」
「仕事?」
「そう。翔太はさ、正社員で、自分のやりたい仕事すでに手に入れてるから、恋愛と仕事の両立はうまくできるかも知れないけど、私は、まだ仕事を手に入れていない。それに私、恋愛をすると、自分のことなんてどうでもよくなっちゃう性格だっていうのが、今回でよくわかったから、なおさら、まずは、自分のことを、しっかりやろうかなって。そうしないと、将来、後悔しそうな気がして」
「それってさ、別れたいって、こと……?」
そう聞いてきた翔太に、さやかは、地面に視線を落としたまま答えた。
「うん……」
「何で?! 今回のことは、誤解だってわかったじゃん。俺たち、何にも問題ないんだよ。ケータイもちゃんと今日直してくるから。そしたら、いくらでもケータイメール送るから」
そう言って翔太は、さやかの手をぎゅっと握る。
しかしさやかは、掴む指を一本一本ゆっくりと開かせ、そして、自分の手から引き離した。
「ありがとう。でもね、思ったの。私は嫉妬深いから、翔太と同じ会社で付き合っているうちは、今回みたいに、あることないこと色んな事を考えて、それで頭がいっぱいになっちゃう。現に私、翔太と付き合ってた四ヶ月間、一度も就職活動してなかったのね」
「それが、俺のせいだって言うの?」
「ううん、そうじゃない。私の問題」
「さやかの問題?」
「そう。私がまだ幼くて、不器用だから……」
さやかは、空を見上げると、言葉を続けた。
「同じ職場にいる限り、秘密の付き合いは続くし、幸せになればなるほど、私の頭は、もっともっと翔太のことだけを考えるようになると思う。昨日の晩ね、翔太の部屋に行く前に、清水さんに、とってもいいヒントをもらったの。だから、もう一回ちゃんと、自分の仕事について考えてみる。で、もし、私の夢が叶って、その時まだお互いのことを好きだったら、その時また、付き合いましょう」
さやかがそこまで言った時。
さやかの高くはない鼻を、一滴のしずくが濡らした。
雨。
やっぱり降ってきた。
そう思ってさやかは、カバンの中から折畳み傘を出そうとした時だった。
「あれ? さやか、何か落ちたよ」
翔太にうながされ、アスファルトの上に落ちた白い紙を拾って、さやかは驚いた。
「あはは、初めてのデートで行ったセミナーのアンケート用紙だ」
「えー? 何でそんなのが今ごろ?」
「あの時私、出さなかったから、何かにまぎれて、一緒に持ってきちゃったんだね」
そう笑いながら言うと、さやかは、アンケート用紙に改めて目を落とす。
“Qあなたの夢は、何ですか……?”
空欄のままの、最後の質問。
当時は、この問いの答えが書けずに、慌ててカバンの中に突っ込んだが、今なら、書けるような気がする。
そんなことを考えながら、さやかは、折畳み傘を開く。
翔太と付き合い始めたきっかけを作ってくれた、白い折畳み傘。
「持つよ」
そう言って翔太が、小柄なさやかの頭上はるか高みで、白い傘の花を咲かせた。
昨日の朝は、悲しい色にしか見えなかった傘が、今はちゃんと白い花に見える。
それも、可憐な中にも、未来に向かって空高く花を咲かせる、生命力溢れる花。
私も、生きる花になる。
さやかはそう心の中で一人つぶやくと、満足そうに笑みを浮かべながら、まっすぐに明日の方向を見つめた。
| 押切優 作家&ファイナンシャルプランナー 2005年集英社ケータイサイト内 1000文字文芸 第二期最優秀賞受賞。2008年山新文学賞佳作受賞。 2008年 2級ファイナンシャル・プランニング技能士資格を取得し、以後、「悩める20代~30代女性を元気にする!」をモットーに、精力的に執筆中。 ブログ:http://blog.goo.ne.jp/yu-oshikiri |
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